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菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

池上競馬場

目黒記念というのがある。日本中央競馬会(JRA)が開催する重賞レースである。その名は明治四十年(1907)から昭和八年(1933)まで東京府荏原郡目黒村(現・東京都目黒区下目黒四~六丁目)にあった目黒競馬場に由来する。
 昭和七年五月、東京優駿大競争(のち日本ダービー)が初めて開かれ、翌年も第二回が行われたが、関東大震災後の周辺部の急速な宅地化と競走馬の飲料水確保の問題で、同年秋に竣工した北多摩郡府中町(現・府中市)の、いわゆる府中の東京競馬場への移転を余儀なくされた。その目黒競馬場の名を記憶するために創設されたのが目黒記念である。
 そのてんでいけば池上記念があってもよさそうなものだ。それというのも、当時の府中の東京競馬倶楽部は、池上競馬場を運営してきた東京競馬会の後身だったからだ。
 池上競馬場の創設者は上総一宮藩主で当時、大森山王に住んでいた加納久宜(かのう・ひさよし、1848~1919)子爵で、日体大の前身の日本體育会體操學校や日本競馬会の創設にも携わった。その加納子爵が中心になって明治三十九年三月、荏原郡池上村大字徳持(現・大田区池上六~八丁目)に一周1800メートルの馬場を持つ競馬場が建設された。春と秋の開催日には二~三万人の観客を集め、大森・蒲田の両駅から人力車が連なったという。そして、東京優駿大競争の前身の帝室御賞典も開催された。
 しかし、明治四十一年、競馬法が改正され、馬券(勝馬投票券)発売が禁止され、僅か三年で事実上の廃絶になってしまう。その意味でも、目黒記念があるなら、池上記念もあるべきだろう。
 池上八丁目にある日体荏原高校は明治三十七年、加納久宜が創設した旧制荏原中學校の後身。もともとは荏原郡大井町千百四十九番地(現・品川区東大井二丁目周辺)にあり、同所には世田谷に移る以前の體育學校も昭和十二年(1937)まであった。
 池上競馬場が建設される以前、そこには八幡社が鎮座していた。池上三丁目の徳持神社は競馬場の設置のため、明治四十一年に遷座し、徳持神社と社号を変えたものだ。『新編武蔵風土記稿』によれば、八幡社と接して真言宗の徳乗院(御幡山眞勝寺)があったが、明治維新の神仏分離で廃寺になっている。なお、徳持神社の西隣りには、養源寺と共に池上七福神を形成している微妙庵(毘沙門天)があり、馬頭観音も祀られているが、徳持に競馬場が設置されたことと関係がありそうに思える。

(ようげん寺報 2013年4月15日発行 第8巻第1号掲載)

『写された大田区』より
写された大田区より1
写された大田区より2
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