No.07

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

節分の打ち上げ花火の落下傘

 ボンボンボーン。昔は、あちこちで小学校や中学の運動会が開かれる朝、打ち上げ花火の音がした。音と、煙だけの花火である。まだ固定式電話が一般家庭に普及していない時代のことである。天候が微妙なとき、打ち上げ花火で、開催の決定を通学する児童生徒に、否、保護者に音で知らせるのである。
 しかし、節分の日、本門寺のお山から聴こえてくる打ち上げ花火は、音だけではなかった。ボンボンボーン、シュルシュルと花火が打ち上がると、煙の中から小さな落下傘が開き、風に乗って飛んでくる。その落下傘には協賛する企業や商店の名前が記載されていて、それを拾ってスポンサーのところへ持って行くと景品がもらえた。
 もちろん、舞い降りてくる前に、本門寺のお山の木々や、電柱・電信柱に引っかかったり、呑川やドブ川に落ちてしまうのもあった。第二京浜や改正道路(池上通り)に舞い降りたとたん、車に轢かれてズタズタになってしまうこともしばしばであった。わたしも道路の真ん中に降りてきたのを拾ったことがある。そういう危険があることから、おそらく、昭和39年の東京五輪が始まる頃には廃止されたのではないかと思われる。
 授業中、校庭に舞い降りてくる落下傘もあった。昭和29年か30年ごろ、運良く三つも拾ったことがある。一つは本門寺から頂戴した豆粒のような大黒様(級友は18金だと言った)で、数年後、廊下の節穴に落下して行方不明。二つめは徳持の商店で手ぬぐい。三つめはたしか道々橋の酒屋だった。ようやく辿り着くと、店を閉めるところで、景品はもう出払ってしまったらしかったが、醤油の小瓶だったか中壜をもらったと思う。
 空から舞い降りてくる物としては、セスナ機が撒き散らす広告のビラがあった。新商品の宣伝や、政治的主張を記したものなど、いろいろなものがあった。子ども達は内容に関係なく、それを何枚拾えるかを競ったものである。大した景品ではないが景品付きのビラもあった。
 わたしが最後に手にしたのは大森高校一年の昭和36年1月、サッカーの練習をしているときだった。深沢七郎の「風流夢譚」を掲載した中央公論社に抗議する右翼団体のビラで、その直後、嶋中事件が起きたことでよく憶えている。それかあらん、こうしたビラはなくなった。
 ちなみに、落下傘付きの打ち上げ花火のことを「吊り物」いうらしい。現在も法的には規制されているものでないらしいが、現状は難しくなっているらしい。節分というと、この打ち上げ花火の落下傘のことを思い出してしまう。もちろん、一つも拾えない年のほうが多かった。

(ようげん寺報 2014年4月15日発行 第9巻 第2号掲載)
節分の日は花火の音で朝から心が躍った
お問い合わせ