No.13

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

池上学校、襤褸(ぼろ)ガッコー

 昭和26年の1月ごろだったと思う。通園していた市野倉の池上幼稚園で、4月には池二に入学する同い年の連中から「池上学校、ボロガッコー」と独特の節回しで囃し立てられた。池上小学校へ入学する予定だった自分には、この囃し詞はつらかった。
 小学校の入学式の日、秋葉校長先生が仰しゃられた。「みなさん、入学前に『池上学校、ボロ学校』と馬鹿にされたかもしれませんが、この続きがあるのですよ。本当は『池上学校、ボロガッコー、上がってみたら、いい学校』なんですよ。みなさん、池上小学校はボロ学校かも知れませんが、中身はいい学校なんですよ。みんなで頑張って、もっと良い学校にしましょう。」幼心にも好い学校にしなければ、と思ったものである。
 だが、校舎はやはり「上がってみてもボロガッコー」だった。近隣の池二・入四・女塚・相生などと比べても見劣りした。もちろん、小2の秋に池小の約半分が移る形で開校した徳持小学校は全部が新校舎である。
 極め付けは昭和29年(一九五四)に開設された大田区民会館である。大田区の中では他に先行し、当時、ラジオやテレビの演芸物の録音・中継会場としても使われた23区でも斬新かつ先進的な施設だった。ところが、そのオープニングに来賓としてきた貴婦人が「あら、あそこに見えるのは区民会館の御便所なの」と、わが母校を貶したのである。
 体育館やプールも区内ではなぜか後回しにされた。たしか昭和30年ごろ相生小学校にプールができた。学区外ではあったが、地元負担金の回状が我が家にも来たと思う。夏休みのある日、他校の子どもも使用できるというので、弟を連れて出掛けたことがある。相生小の児童は無料、他校の子どもは10円、幼稚園児5円だった。ところが、入場すると、「お前、池小だろう、帰れ!」と水を掛けられ、悔しい思いで帰宅したことがある。ちなみに、当時、10円でコッペパン、5円でコロッケが買えた。悪口を言われながら強盗に遭った気持だった。今でも相生小学校の前を通ると、その時のことを思い出す。
 ボロ学校ゆえの悲哀だ。だが、ここで、注目してほしい。池上小学校ではなく、池上学校なのである。池上尋常小学校でも池上高等小学校でも池上国民学校でもないのである。明治11年(一八七八)6月28日、東京府第七大区小三区の最初の一校として理境院本堂を借りる形で創立された学校なのである。少し遅れて池雪尋常小学校と久が原尋常小学校が池上の分校(のち独立)として開校したが、高等科へ進む人は池上(尋常高等小)学校へ行かなければならなかった。その伝統の古さに嫉妬した連中がボロ学校呼ばわりをしていたわけである。

(ようげん寺報 2015年4月15日発行 第10巻 第2号掲載)
昭和21年4月。前田住職入学式の当日
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