No.18

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

池上5丁目の 「鵜ノ木村飛地」の残影

 池上5-27の呑川の辺に都営池上五丁目アパートがある。そこへ行くと「女塚団地自治会」との表示がある。西蒲田と同じく旧・女塚町なのである。もちろん、隣接する地域では、こうした状態が起こりうるが、同地の場合は少し事情が複雑だ。
 実は、ここは明治22年4月の市・町村施行の直前までは、荏原郡鵜ノ木村飛地の小名奥嶋と呼ばれていた。町村制の施行で、鵜ノ木村の本体は調布村の一部となり、飛地の「奥嶋」は「沖島」と改称され、字沖島七八四~七九六番地は矢口村に、七九七~一〇四〇番地は蒲田村に編入された。都営池上五丁目アパートはこの蒲田村に属する沖島の名残りだったが、昭和7年10月、東京府荏原郡が東京市に編入されて蒲田区が設立されたとき、調布村の沖島は蒲田区蓮沼町、蒲田村のほうは蒲田区女塚町となり、ここに沖島の地名は消滅した。
 ところが、『大田区遺跡地図』(一九八七年)の西蒲田1丁目22番の所に「鵜ノ木奥島天神の森遺跡」というのが出てくる。大城通りの共立信用組合西蒲田支店のある五ッ角の辺りである。『大田区地図集成』(平成2年)88ページの昭和6年の地図を見ると、この五ッ角から呑川の日蓮橋までが「天神通」となって、昭和17年の地図だと、天神の森は蒲田区女塚1丁目27番地である。
 なぜ天神の森と呼ばれているのか、といえば、ここに菅原道真を祀る天神様が鎮座していたからだ。『大田区の神社』(昭和46年)を見ると、北蒲田村の天満宮、すなわち京急蒲田駅東口の夫婦橋を少し下った、南蒲田1-6-5に鎮座する北野神社の由緒として、「池上の麓、矢口村天神森に鎮座せる社が呑川の洪水により度々流されて、北蒲田村字宿南の杉原重右衛門宅前に留まること再三に及び、そのつど天神森に還元したが、七度目に至り、嘉永二年、村民が相談の上…杉原家地内の諏訪神社に合祀する」云々とある。ただし、同由緒は明治期の矢口村と江戸期のそれとを混同している。
 おそらく、堤方村を流れる呑川の氾濫で奥嶋の縁に鎮座していた天神の社殿が流されたのであろう。『大田区の神社』には奥嶋(沖島)の記載がないが、幾つかの断片を織り重ねていくと、沖島の貌がほの見えてくる。それはかなり広く、現在、蓮沼中学や大森高校がある周辺、そして池上5丁目23、24、27、28の地域(おなづか小学校の通学圏)が旧「鵜ノ木村飛地の奥嶋」となっている。その天神の森には戦前まで何かが祀られていたらしい。現在、南久が原2-24-1に鎮座する鵜ノ木八幡神社の社頭左側に庚申様(左)と稲荷(右)が祀られているが、その稲荷は奥島稲荷と呼ばれているらしい。

(ようげん寺報 2016年2月15日発行 第11巻 第1号掲載)
写真中央の周辺が「天神の森」だった
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