No.20

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

かつて銀座ケテルの厨房があった!

 池上4-5-11にketelʼs Residenceというのがある。この場所に、かつて中央区銀座5丁目にあったレストラン「ケテル」の厨房というか下ごしらえの調理場があった名残りである。
 創業者は、北ドイツのホルシュタイン州生まれのヘルムート・ケテル(1893~1961)さん。第一次世界大戦のとき、中国の青島(チンタオ)で日本とドイツが戦ったさい捕虜となり、千葉県習志野俘虜収容所に入れられたが、そのまま帰国せず日本に留まった方だ。
 会津出身の日本人女性と結婚し、二等巡洋艦エムデンの厨房兵だった経験を生かし、昭和二年(一九二七)、銀座並木通りにバー「ラインゴールド」を、同五年(一九三〇)、その隣にレストラン「ケテル」を開店した。来日したドイツ人のたまり場としての役割を果たした。日本で初めてハンバーグを提供したのもケテルだったと言われている。
 銀座ケテルの食品工場が旧・堤方町に出来たのはいつ頃なのか、分からないが、わたしが池上小学校へ通い始めた昭和26年には、既にあったと思う。バス通り(当時・改正道路、現・池上通り)を渡り、大島眼科の手前の角まで来ると、シナモンの香りのパンを焼く匂いが漂ってきた。美味しそうな香りが赤いレンガの窓から漏れてきたのを、昨日のように思い出す。ケテルさんの顔も何度か見たような気がする。おそらく、ケテル家の住居もあったのではないかと思う。
 ケテル周辺では、その頃、山王二丁目にあった東京独逸学園のスクールバスを目にした。学園はもともと横浜にあったが、大正十二年の関東大震災で被災したことから、大森の民家を借りて授業を開始。紆余曲折を経て、昭和八年(一九三三)から平成三年(一九九一)まで山王二丁目にあった。大森駅西口の東急バス上池上循環が走る三叉路のことを「ジャーマン通り」というのは、その名残りである。
 その後、東京横浜独逸学園と改称し、横浜市都筑区茅ヶ崎南二丁目へ移転、当初はスクールバスを池上周辺でもしばしば見かけた。ちなみに、インターネットで検索すると、ご一族であろうか、同学園の図書館長にケテルさんの名が見える。
 一方、銀座ケテルが惜しまれながら閉店したのが平成十六年夏だった。たしか食品工場のほうは昭和五十年代には大森高校の少し南側の西蒲田三丁目に移転していたが、いつもなら駐車しているはずの「銀座ケテル」と記した運搬用の車が見えなくなった矢先だった。一度も銀座ケテルへ出掛けたことがないのが心残りだ。

(ようげん寺報 2016年6月15日発行 第11巻 第3号掲載)
煉瓦色の壁と白の縁どりが美しいケテルスレジデンス 
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