No.21

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

堤方字十二天の地名と社

 十二天といえば、横浜市中区の本牧十二天の地名を想い浮かべる人がいるかもしれない。今は中区和田山へ遷座しているが、この地はもともと本牧岬の先端に突き出た島で、そこに十二天社(現・本牧神社)が鎮座していた。
 実は、わが池上の堤方、すなわち、武蔵國荏原郡堤方村、のちの東京府池上町大字堤方にも「十二天」という字(あざ)があった。『新編武蔵風土記稿』に「小名(こな)十二天東の方大森村の接地を云。此所に十二天の社あればかく云(いへ)り」と見える小祠である。この十二天はJR東海道線・京浜東北線を挟んだ中央8丁目と大森西7丁目の地域で、弁当の玉子屋とメリーチョコレートの周辺である。
 十二天社は明治42年6月28日、三所神社(旧・熊野社)と共に若宮八幡神社へ合祀され、堤方神社と改称されたが、それまでは堤方562番地に鎮座していた。昔の地図で調べてみると、メリーチョコレートの辺りになる。
 ところで、戦後は“無頼派”作家として一世を風靡した坂口安吾(一九〇六~一九五五)が昭和9年から昭和11年にかけて、大森区堤方町555の十二天アパートに住んでいた。大森西7丁目25番の辺りである。そこはメリーチョコレートよりも東邦大学大森病院のほうが近い場所である。すなわち、東邦医大の前まで堤方=池上が続いていたことになる。
 戦後間もない頃までは踏切以外でも線路を渡る人がいたが、やがて法的にも規制され、十二天地区は線路を隔てて文化圏が分断された。現在も玉子屋とメリーチョコレートとの間に、人と自転車だけが通れる小さな踏切があるのはその名残りである。
 この中央8丁目の一角(22~26、31~33)から梵字が墨書された木製の人形(ひとかた)が多数、出土している。十二天遺跡と名付けられているが、奈良時代から平安時代にかけて、十二天の地が祭祀場であったことがわかる。そして、呑川を挟んで西蒲田4-20-10の現在はマンションになっている場所にも大きな遺跡がある。
 ここは「型絵染」の人間国宝・文化功労者の芹沢銈介(一八九五~一九八四)が昭和9年から五十年間、製作を続けて来た場所である。その作業場を造ったとき、のち旧石器・縄文研究の第一人者となる長男の芹沢長介(一九一九~二〇〇六)が弥生から平安時代にかけての祭祀・生活遺跡であることを発見、没後に発掘・調査することになった。ここは旧地名だと女塚になるが、十二天遺跡との関係が議論されている。養源寺の山の上の権現台遺跡との関係もありそうだ。

(ようげん寺報 2016年8月15日発行 第11巻 第4号掲載)
踏切の右奥がメリーチョコレート
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