No.25

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

京都へ向かった池上氏の分流

 本門寺本殿の西側の、道路を隔てて歴代墓所がある。その西側奥の大坊へ降りる角には「池上宗仲公御夫妻」と「池上家之墓」がある。その周辺からは富士山と丹沢連山が見渡せるし、東に目を転ずればかつては筑波山も見えた。
 宗仲公の子孫については、「⑮川崎市の、もう一つの池上」でもふれたが、『新編武蔵風土記稿』橘樹郡大師河原村「旧家名主太郎右衛門」条によれば、「太郎右衛門が先祖池上右衛門太夫宗仲は、鎌倉将軍の番匠なり」とある。番匠とは「大工」の意で使われるが、『広辞苑』によれば、「古代、交替で都に上り、木工寮で労務に服した木工」のことである。宗仲は右衛門太夫の官名を持っていたので、「従五位下」以上の、鎌倉幕府の作事奉行(建設長官)に相当する地位にあった、と考えられる。単なる地頭職ではなく、高度な建設技術を持っていたらしい。
 ふつう、右衛門太夫宗仲・兵衛志宗長兄弟の「宗」の字は、6代将軍宗尊親王の御名の一字を賜ったとされているが、建物の「棟」から来ている可能性も指摘されている。そういうところからか、鎌倉幕府崩壊後は、京都へ移って室町将軍足利氏へ仕え、室町幕府御大工に登用された家系の流れもあった。天文15年(1546)12月、13代将軍足利義藤(のち義輝)の元服が近江国坂本で行われたとき、御大工池上五郎左衛門が烏帽子着帯で参候している。また、元亀3年(1572)織田信長が上洛して京都屋敷を造営したとき、池上五郎右衛門が棟梁を勤めている。
 この室町幕府御大工池上氏は、先祖を北条時宗の御所大工だった池上宗仲とし、2代将軍足利義詮のときから足利将軍家の棟梁として仕えた、という家伝を持っている。その家系は、江戸時代には、法隆寺番匠の末裔で徳川家康に重用されて1千石の知行を有した京都大工頭・中井氏の支配下に属し、御扶持人棟梁として70石の知行を受けていたという(永井規男。『朝日 日本歴史人物事典』1994年)。すなわち、士分格の大工の棟梁である。
 この池上氏と、どう繋がりがあるのか不明だが、信州で活躍していた池上氏を名乗る大工たちもいた。長野県伊那市の日蓮宗、遠照寺には国重文指定の釈迦堂(天文7年=1538建立)内の多宝塔(文亀2年=1502)があるが、その心柱には大工鉾持住人池上左衛門太夫政清(当時76歳)ほか、同嫡子若狭守貞政(46歳)ほか棟梁の一族の名前が列挙されている。おそらく、新田開発のため、川崎大師河原へ移り住んだ池上氏も、広義の土木建築の技術を持っていたのではないかと推測できる。

(ようげん寺報 2017年4月15日発行 第12巻 第2号掲載)
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本門寺境内にある池上宗仲公ご夫妻の墓
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