大森四中の
幻のアイヌのチャシ遺跡
めぐみ坂を上り詰めると、右側に大森四中の通用門がある。その先は堤方神社である。さらに、道に沿って進めば、池上本門寺の五重塔に至る。
堤方神社の社殿の裏側には、旧・堤方各町会の神輿の倉庫がある。そこから覗き込むと大森四中の小さなグラウンドが見える。たしか第二グラウンドと呼ばれていたはずである。
その第二グラウンドを隠すように土手状のものがある。
土手状のものは現在は整備されていて、より土手らしく見えるが、昔は雑木が生い茂っていた。中学2年生(昭和33年)の初夏のころ、そこに足を踏み入れると、石の標註が倒れて転がっていた。たしか、東京都史跡だったか旧跡と書かれていた。名前を思い出せないが、社会科の先生に訊ねると、「あの場所はチャシの遺跡だったらしい」と教えてくれた。
わたしは小学生の頃、世界の謎とか日本の古代というようなものを好んで読んでいたので、「先生、チャシってアイヌの砦のチャシのことですか」と質問した。先生はお喜びで「そうだ。千葉県の銚子もチャシから来ている」と、いろいろ説明してくれた。しかし、実際は、大森四中の土手のようなものはチャシではないということで、指定解除になったらしい。
それから15年後の昭和48年、わたしは青ヶ島村役場に勤務していたが、その時、偶然目にした謄写刷りの文書に、その遺跡のことが載っていた。メモをとっていないので、はっきりしないが、登録指定日と指定解除日だけが載っていたと思う。戦後間もなく登録され、数年後には解除されたようだ。
この土手のようなものは何なのか。グラウンドを造ったときに寄せ集められたものなのか。一番可能性があるのは堤方権現台の続きである。11話でも紹介したが、弥生・古墳期の複合遺跡である堤方権現台遺跡は、「武蔵国荏原郡」の「六郷領堤方村」と「馬込領下池上村」の境にある。現在は永寿院の境内地(旧・下池上村)となっているが、養源寺(旧・堤方村)墓地のちょうど上のほうにあたる。ここからは江戸時代の時点で古刀古器が出土している。大森四中の土手のようなものが権現台の続きとすると、納得できる点が多い。かつて大森四中の第二グラウンドで遊んでいると、弥生式土器の破片が出てきたからである。
続縄文人なのか、それとも蝦夷人なのかわからないが、少なくとも弥生期からムラとムラの境の聖地・霊地として、本門寺成立以前からこの土手のようなものがあったのではないかと思われる。