No.30

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

池上のお寺の中のお稲荷さん

 養源寺にも昭和34年9月の伊勢湾台風の時まで最上稲荷があったことは第26話で記したが、今回は池上の他の日蓮宗寺院にある稲荷について紹介してみたい。めぐみ坂上の堤方神社の西側にある法養寺の山門の右側に、全体で高さ二メートルを超える石柱がある。右から「法養寺」と刻まれた三段から成る基壇の上に、正面「南無妙法蓮華経」、左側面「熊谷稲荷大明神安置」、右側面「文化十一甲戌季六月吉辰」、その裏側には造立した平柳氏の名が記されている。
 熊谷稲荷は江戸の流行神で、『江戸名所図会』(巻之六開陽之部)「金龍山浅草寺」項には、「熊谷稲荷祠 本堂の後の片隅にあり。熊谷安左衛門といへる人勧請す。来由は繁きをいとひてここに略す…」とある。しかし、明治初年の神仏分離で現在地の台東区寿2-5-7の日蓮宗・本法寺へ移された。勧請した安左衛門は、織田信長と争った越前国の戦国大名朝倉義景の武将で、かつて狩猟に出掛けようとした前日、野狐が老人の姿で現れ、狐の救助を願い出たという。それ以来、数々の幸運が舞い込み、安左衛門が江戸に出ると、浅草観音の裏に稲荷祠を勧請した。ただし、長瀧山本法寺には安左衛門の墓があったことから江戸中期には熊谷稲荷の分霊を既に勧請しているらしい。
 一方、法養寺は天正6年(一五七八)江戸・神田三河町に勧明山の山号で起立し、慶長年間(一五九六~一六一五)幕命で下谷稲荷町に移転。法養寺の熊谷稲荷は江戸城大奥の稲荷人気の高揚で享保20年(一七三五)に勧請されたものだが、これは同寺が江戸城西御丸と大奥の祈祷所になったことに由来するものらしい。明治43年(一九一〇)池上の妙教庵と合併し、現在の妙教山法養寺となった。この時、熊谷稲荷大明神の石柱も現在の台東区東上野から運ばれてきたようだ。結構、大変な移動であったろう。
 池上2-10-7の實相寺の境内には「矢先稲荷堂」がある。お堂下の石碑によれば、昭和25年4月の再建とあるが、この稲荷は現在の台東区松が谷2-14-1に鎮座する矢先稲荷神社と関係があるらしい。同地には寛永年間(一六二四~一六四五)、浅草三十三間堂があり、「通し矢」の的場に隣接して稲荷が祀られていたという。三十三間堂は元禄11年(一六九八)の勅額火事で深川へ移転したが、實相寺はその稲荷の別当だった可能性がある。ちなみに、實相寺は元々、法花山と号し日本橋馬喰町に開創したが、明暦の振袖火事(一六五七)で浅草新寺町(松葉町)に移転、大正12年、池上の妙玄庵と合併し、現在地へ移転した。その浅草時代、斜め前に矢先稲荷社があったといわれている。

(ようげん寺報 2018年6月15日発行 第13巻 第3掲載)
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