No.33

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

めぐみ坂の
木下順庵先生之墓跡

 めぐみ坂の上り口附近の、めぐみ幼稚園の塀にへばりつくように石碑がひっそり建っている。そこには「木下順庵先生之墓跡」と記されている。「跡」となっているのは、墓を大正三年(一九一四)、江戸時代の儒学者を儒教祭祀する墓所、東京・小石川〔文京区大塚5-39〕の大塚先儒墓所へ改葬したからである。
 『新編武蔵風土記稿』荏原郡(六郷領)堤方村の妙雲寺の条を見ると、木下順庵墓が八七〇字で記されている。それによると、「この地は公の御許しで受けし墓地」とあり、一見、妙雲寺の境内地のようにも見えるが、幕府から与えられた墓所という位置づけになっている。碑の左隣の掲示「当地由来」によると、堤傍[方]村村民荒忠七とその子孫が代々、墓を守ってきたという。
 木下順庵(一六二一~一六九九)は江戸前期の京都出身の儒学者。僧天海に神童ぶりを見込まれたが、儒を学んで加賀国金沢藩主の前田利常に仕え、天和二年(一六八二)幕府儒官となり、さらに五代将軍徳川綱吉の侍講となった。門下からは徳川吉宗の侍講となった室鳩巣や、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務に携わった雨森芳洲など、木門十哲と呼ばれる大儒を輩出した。とくに、その筆頭に挙げられるのが新井白石(一六五七~一七二五)だ。
 白石は上総久留里藩主土屋氏に仕える家臣の子として生まれ、七転八起の人生を送った。浪人中も儒学を独学し、貞享三年(一八六八)木下順庵に入門し、順庵の推薦で元禄六年(一六九三)甲府徳川家の徳川綱豊に四十人扶持の侍講として仕えた。宝永六年(一七一〇)綱豊が家宣と改め将軍となると、側近として幕政に参与し、正徳の治と呼ばれる政治改革を断行した。
 その新井白石が木下順庵の墓を詣でた時の、「冬日上恭靖先生墓」と題する漢詩(五言絶句)が遺されている。「寒日下山阿。不堪蒿里歌。如今来往者。但見白雲多。〔寒日に山阿を下れば/蒿里(葬送)の歌に堪へざりき/如今来往する者には/但 白雲を見ることのみ多かるらん【大意】冬の寒いある日、山道を下ると、葬送の時に作った詩を想い出し、悲しくて堪らない。だが今、再びここへ来ると、時の流れの中で、次々と頭上を流れゆく白雲を見るだけだ。」
 白石が下り降りた坂道が現在のめぐみ坂なのか。これが詠まれたのが何時なのか、も厳密にはわからない。この詩が収められた『白石詩草』は正徳二年(一七一二)江戸麹町・唐本屋清兵衛から刊行されているので、おそらく徳川綱豊に仕えていた頃であろう。なお、白石は「挽恭靖木先生五首」・「春日追悼恭靖先生詩八首」も読んでいる。

(ようげん寺報 2018年8月15日発行 第13巻 第4掲載)
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木下順庵の墓所跡を示す「当地由来」
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