いつか会える日

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表裏一体

表裏一体

 「お盆にはゆっくり休んでいただけましたでしょうか。来年も楽しみにお待ちしております。毎日暑い日が続きますので、どうぞお体を大切にしてください」
 「十月はお会式ですね。世界中の皆が幸せになるよう祈らせていただきます。お父さんお母さんのお友達NさんIさんがそちらに旅立たれました。私達が今生きていられることに感謝です」
 二日がお父様の、三日がお母様の月命日で、毎月そのどちらかの日に、このお二人の戒名と前述のような折々のメッセージが書き記され、お金のつつまれた小さな封筒が、本堂前の賽銭箱に入っています。
 朝のお勤めの時、その封筒を経机に置いてお二人のご回向をするのですが、一ヶ月も欠かすことなく、もう十年になろうとします。はじめの頃はご回向をすませると封筒はお焚きあげにしていたのですが、ある頃から小さなファイルブックに保管するようになりました。
 一枚の紙には必ず表と裏があり、それを切り離すことはできません。両面がなければ一枚の紙は存在できないということですが、人の生死もその紙の表裏と同じように思うのです。もし、こうして生きている側を表とするならば、その表を表にしている裏が、つまり生かす側がなければなりません。そして一枚の紙の表と裏を切り分けることができないように、生きる側と生かす側も切り離すことができません。人が死ぬということは、この生きる側から生かす側に移ることで、表から裏を見ることができないように、生きる側から生かす側を見ることはできませんが、刻々と共にあるということです。
 「梅雨の季節になりましたが少し寒い日がつづいています。お母さんリュウマチが痛くないですか、心配です」
 こうしたメッセージを、はじめはただほほえましく読んでいたのですが、それが日々生かされていることへの感謝から生まれてくる言葉なのだと気がつき、お焚きあげすることができなくなったのです。

(ようげん寺報 2014年10月15日発行 第9巻 第5号掲載)
なすび
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