いつか会える日

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人間大好き

 池上本門寺の第八十二世酒井日慈貫首さまが、この八月三十一日をもって退任されました。数え年九十七才。元気いっぱい十六年のご在山でした。
 もう五十年近くも前のことです。この酒井さんから近隣寺院の子弟に声が掛りました。若い力を結集して旧態依然としている宗門に、新しい息吹きを吹き込んでいこうということでした。さっそくいろいろな勉強会が始まりましたが、その頃の私はさしたる自覚もないまま、なんとなく遠まきに参加しているだけでした。ところが、しばらくして酒井さんが中心となって本門寺に「文化部」が新設されることになり、そのメンバーの一人に加えられてから、考えてもみなかったような刺激に満ちた毎日が始まることになったのです。
 大堂の脇の部屋に初めて全員が顔を揃えた日の訓示は”親しみて狎れず“。お互いどんなに親しくなってもいい、しかし、このけもの偏の「狎れる」という文字のように、懐ききった動物が寝転んで腹を見せるような、節度を欠いた間柄になってはいけない、というものでした。
 以来、寺と学校の生活しか知らなかった私などは、言葉遣いから始まっておよそ人生百般、実にこまごまと教え込まれることになったのですが、忘れられないのはそんな或る日、原因が何であったか、酒井さんから烈火の勢いで叱責されたことがありました。ところが、私の前に立ち、机の上にバン!と両手を置いて叱る酒井さんのその手が震え、そのためにガタガタ音をたてる机を見ているうちに、恐縮する気持はどこかに消えてしまい、二十歳も年下の私をこんなにも真剣に叱ってくれるのだという気持と共に、生まれて初めて「信じられる人」という気持を味わったのでした。
 酒井さんを一言で言えば、”人間大好き“人間です。人が心底好きで大切に思うからこそ、人も社会もこのままではいけないのだと、止めても止まらない思いが次から次へと湧いてきて、そうとは知らない周囲をいつも驚かすのです。 

(ようげん寺報 2015年10月15日発行 第10巻 第5号掲載)
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