…がくれた、幸せ
先生たち
文・秋津良晴 絵・中山成子
 
 3年生になるとボクは隠すこともなく、授業を抜け出すようになっていました。頻繁に職員会議にかかっているとは知らずにいたのです。なのに、3学期の授業は全て休んで上京し、予備校に通う計画を立てていました。筆記試験はともかく実技が劣っていることを身にしみて知っていたからです。担任の先生に「あと何日出席すれば卒業できますか?」「テストは何点取れば?」などとありえない質問を投げかけていました。先生は呆れたような顔をし、そっぽを向くと、机を叩く拳が不自然に開き、動きました。「大丈夫だ」という合図でした。
 当時の体育の授業は「体罰の代名詞」と言っていいくらい、厳しいものでしたが、幸い、ボクのクラスは温厚な年配の男先生が受け持ち
でした。3年生の二学期。その日も体育の授業を抜け出していたボクに先生から呼び出しがありました。説教を覚悟で体育館へ向かいました。バレーかバスケの授業中だったと思います。体育館へ入っていくと、クラスメイトが笑顔で声をかけてきました。「おーい、なんしに来たとか!」と冷やかす者がい、「せんせー、怒っちょたぞー」とニヤニヤする者がいました。クラスの仲間はボクの言い分を支持するものが多く、応援のつもりの冷やかしでした。そのうち、体育の先生が厳しい顔をしてボクの前に立ちました。ボクは「すんません」と言い、視線を落としました。「今日も、職員会議で問題になっちょった」と先生。返す言葉もなく佇んでいると、しばらくあって、「絵は描いちょるか?」と意外な質問がありました。「描いています」と答えると、「なら、よか」と言い残し、先生は練習している生徒の中へ入っていきました。
 後の事、男先生は「秋津は合格すっとか?」と、度々、友人に尋ねたそうです。頻繁に職員会議で取り上げられていたにも関わらず、ボクは無謀な計画を実行できました。それは、担任はもとより、体育の男先生のような理解者が少なくなかったからだと思います。知らず知らずに背負っていたものの重さを思い知らされています。
(ようげん寺報 2017年4月15日発行 第12巻 第2号掲載)
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