いつか会える日

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親ごころ

 法華経は譬話で大切なことを教えるお経として有名ですが、一つ一つの譬話が面白い物語になっていますので、うっかりすると物語にばかり気をとられて大切なことに気がつかないことがあります。
 たとえば前回の話では、友人がもっとわかりやすいところに宝珠を縫いつけておいてくれればよかったのにと、つい思ったりしてしまいます。実はそう思うのがそもそも「咄哉丈夫!」と叱られてしまう理由で、宝珠は見ればいつでもそこにあったのです。それに気づかない、見えているのに見ていない、それこそが問題だったのですね。
 第三章に出てくる「三車火宅」という譬話では、火事になった家の中でそれを恐ろしいとも思わず遊びに夢中になっている子供たちを救い出すため、父親(お釈迦さま)が子供たちそれぞれが大好きな三種類の車(羊の引く車、鹿の引く車、牛の引く車)が家の外にあるから出ておいでと呼びかけ、それを聞いて我先に家から飛び出してきた子供たちの安全をたしかめると、父親は子供たちが欲しがっていた車とは比べものにならないほど立派な車を等しく与えます。この車を引くのは大きく美しい白牛で、風のように速く走ります。
 ここで、子供たちは欲しくて仕方のなかった車を与えられずに、はたして満足したのだろうかなど考えてしまうのは、親の心子知らずで、大切なことは火が迫っている危険な家(生死の苦しみやさまざまな悲しみ悩みの充満する世界)から子供たちを逃れ出させるということなのですね。三種類の車はそのための手段で、等しく与えられた大白牛車は、お釈迦さまと同じ最高の境地、まことの幸いということです。
 このように、ある時は父となり、ある時は長者の姿となって、なんとしてでも私たち衆生を救いたいというお釈迦さまの一念が、終始一貫してあふれ出ているのが法華経というお経で、それが身に沁みて感じられてくると、「空」だの「無」だのと言ってわかったようなつもりになっていた昔が、恥ずかしくなってくるのです。

(ようげん寺報 2016年12月15日発行 第11巻 第6号掲載)
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