いつか会える日

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魚(うお)の子

 息子の宣明が千葉県大多喜妙厳寺の野坂法行上人について得度(僧侶として歩み出すこと)をさせていただいたのが平成四年三月十三日。十三日は先代の命日でもありました。得度式は妙厳寺の本堂で行われ、養源寺からも総代さんや唱題会の皆さんが駆けつけてくださり、母も押田さんも、浜やんも松っちゃんも亀ちゃんも、それはもう大よろこびでした。
 式の終りにお礼の挨拶をさせていただいたのですが、その中に日蓮聖人の「魚の子は多けれども魚となるは少なく……」のお言葉を引用したのを覚えています。
 「魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は多く咲けども菓になるは少なし。人もまたかくの如し、菩提心をおこす人は多けれども退せずしてまことの道に入る者は少なし……」
 師匠と弟子という縁に結ばれ、こうして得度に到る、そのこと自体がすでにどれほど有難く尊いことかはよく承知しているつもりですが、しかしそれもまだ、魚の卵が深く広大な海中の一隅に生みつけられたほどのことで、果してその何パーセントが稚魚となり、更に成魚となることができるのか、その遙かな道のりがいよいよ始まるのだなという感慨があってのことでした。
 あれから二十六年、幾多の紆余曲折を経てこの九月に住職の交替が決まった今、またその言葉が思い出されてきたのは、住職になるということは、僧侶としてのゴールでは決してなく、住職になろうがなるまいが仏道はつづき、魚の子が魚となるかどうかはいよいよこれからの精進によるということ、そして住職という重責には、時として本来の精進とは別の、さまざまな負担も伴うことなどを考えるからでしょう。
 飾り気なく、驚くほど分け隔てなく、卆直に人と対し、事に対していくのが宣明の持ち味ですが、私の見るところ、どうもこれは先代光佑上人ゆずりのもので、加えて師匠の薫陶よろしきを得た結果と言えそうです。

(ようげん寺報 2018年8月15日発行 第13巻 第4号掲載)
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