…がくれた、幸せ
あかまんじゅう
文・秋津良晴 絵・中山成子
 

 人は、ひとりで生きているように思っていても、誰かに支えられたり、動かされたりしているものです。ひとりよがりで生きていたあの頃を顧みると、冷や汗ものです。
 中学校時代に陰(かげ)に日向(ひなた)に私を導いてくださった記憶に残る先生が何人かいらっしゃいます。中でも中一で担任だった山添先生は、私に「ガリ版文字」や「レタリング」を教えてくれました。中二の担任、芦田先生は漢字のテスト以来、公共の場での文字描きの機会を沢山作ってくれました。そして中三の担任、赤間先生は私の進むべき道を拓いてくれたのです。職員室に貼ってある時間割、組織図などを描いていたので三人の先生、または他の先生方は「私の字」を知って

いてくれたものと思います。そして、私の扱いについて、何らかの申し合わせがあったことは想像に難くありません。現在だとそういうことができるでしょうか。昭和のあの時代だからできたのだと思います。
 私が探し求めていた「あの字」を描く技術の主が赤間先生でした。赤間先生は「あかままさじゅう」という名前だったので、生徒からは「あかまんじゅう」とか、「まんじゅう」と親しみを込めて呼ばれていました。三年生時の担任で美術の先生でした。目の前に長い間憧れていた「あの字」を描く先生がいたのです。毎日、板書(ばんしょ)される字をノートをとることも忘れて、その字に見入っていました。そして、私は、それをいつ言い出そうか、そのことばかりを考えていました。私にとってそれは、女子に告白するのに似て、とても恥ずかしいことでした。
 私は中三になってもきちんとしたクラブには入っていませんでした。興味のある美術部や写真部、工作部などは、私がやりたいこととは壁ひとつのズレがあるように思えていました。ちなみに「まんじゅう先生」は写真部の顧問だったのです。私はある日、勇気を出して職員室へゆき、先生の字が好きで、自分も描けるようになりたいと言いました。そして、「印刷クラブを作りたい」とお願いすると、先生はまじめな顔をして、「うむ」と言って引き受けてくれました。

(ようげん寺報 2014年8月15日発行 第9巻 第4号掲載)
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