…がくれた、幸せ
革靴
文・秋津良晴 絵・中山成子
 いつの頃からか母の呼び方が、「かあちゃん」から「母」に変わっていました。先日、山本耕史くんの『陽炎の辻』の中で、竹村武左衛門(ぶざえもん)が品川柳次郎(りゅうじろう)の母親を「御母堂様(ごぼどうさま)」と言う場面がありました。こう言う呼び方は最近では耳にしませんね。その御母堂が「金子(きんす)のことを口にすれば卑(いや)しくなります」と、竹村を叱ります。言葉こそ違うけれど、ボクの母が「お金のことは言(ゆ)うちゃいけん」と言っているのを度々耳にしました。
 兄の後を追うように父が亡くなると母の不安はいかばかりだったでしょうか。母は専業主婦です。わずかに内職をしていたけれど、
まとまったお金になるような仕事ではありませんでした。そんな事情も知らずにボクは好き勝手をやっていました。
 父が死んだ日の事です。ラジオ局から取材が入り、ボクが応じました。その番組を聴いていた父の働いていた会社の社長さんが、ボクのコメントにいたく感動し、奨学金を出すという話になりました。本社は東京の丸の内にありました。三井系の財閥です。それを知ったあたりから嫌な感じはありました。在京の義兄と丸の内の会社を訪れましたが、地下のレストランで待つように言われました。1時間も待った頃、取次の人が現れて、今日は会えないと言いました。奨学金に関しては後日ということでボクは九州へ戻って行きました。その後日、約束通りに、組合長さんが来て、母と奨学金の手続きのことを話し込んでいる様を見ていると、再び怒りがこみ上げてき、「いらん」と言い、ボクは黙ってしまったのです。
 組合長さんが帰って行くと、母が「貰うちゃらんね」と言いました。貰うと母は金銭的に楽になったのでしょう。しかし、ボクは東京まで呼びつけて会わなかった社長に腹が立っていました。どうにも、感情を抑えることはできず、結局、奨学金は貰わずじまいでした。「貰うちゃらんね」という言葉が、今は母の哀願のように聞こえます。どうやって貯めたのか、そこそこの現金を残して母は亡くなりました。そのお金で養源寺にお墓を立てることができました。
(ようげん寺報 2016年10月15日発行 第11巻 第5号掲載)
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