No.02

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

池上道は古東海道なり

 お寺の前の呑川に架かる養源寺橋を渡ると、東西に「池上道」が貫いている。我々は、この池上道を通称「旧道」、その南側のバスが走る「池上通り」のことを昭和30年代までは「改正道路」と呼んでいた。いわゆる旧道‐新道の関係である。
 池上道は平間街道とも呼ばれていた。万屋の角を西へ進み、徳持村と久ヶ原村(馬込領と六郷領に分かれていたが、ここでは後者)の境の千本松(現在の池上警察署の周辺)から鵜ノ木方面へ出て、今日のガス橋付近にあった「平間の渡し」を渡る道筋である。ちなみに、JR南武線・平間駅のある上平間は川崎市中原区、下平間は幸区に属している。江戸時代も上平間村は橘樹(たちばな)郡稲毛領、下平間村は橘樹郡川崎領だった。
 この池上道が古東海道だった。ふつう、東海道というと、江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ東海道五十三次を思い浮かべるが、古くは京都と常陸国を結ぶ街道沿いの行政区域を意味した。徳川家康の江戸入府のときは平塚から中原街道を通ったように、東海道はまだ整備されていなかった。北品川から立会川まで旧東海道が整備されているが、池上道は江戸時代以前の古東海道である。
 実は、武蔵国は宝亀二年(七七一)まで東山道に属していた。東海道は相模国の三浦半島あたりで文字通りの海道となって房総半島へ抜けていた。延喜五年(九〇五)に編纂を開始し康保四年(九六七)に施行された『延喜式(えんぎしき)』巻二十八 兵部省 諸国駅伝馬条によれば、武蔵国には店屋(たなや)・小高(をだか)・大井・豊島の四つの驛(うまや)が設けられた。それらが所在する郡(こほり)は都筑(つづき)・橘樹・荏原・豊島である。
 店屋は町田市の周辺、小高はわたしの調査では川崎市高津区新作の辺りである。大井は大井駅周辺と思われがちだが、実は、中世までの大井郷を指す。南北朝の時代の貞治五年(一三六六)の室町二代将軍の足利義詮(よしあきら)の古文書には不入斗(いりやまず)村と新井宿村(のち入新井)も大井郷に数えられていた。大井驛は新井宿にあったと考えられている。馬込という地名は古代、荏原郡から驛馬・傳馬を供出していたことに由来する。
 池上道はその新井宿と池上、さらに橘樹郡小高(中原区上小田中・下小田中の説もあり)を結ぶ古東海道だった。『新編武蔵風土記稿』は池上道を「稲毛道」の名で呼んでいるが、いずれにせよ、橘樹郡稲毛領(中原区・高津区・宮前区など)に至る道だった。日蓮聖人が池上に来られる以前から池上は古東海道の地の利にあったといえる。
 なお、大田区中央1丁目の春日神社の角には「いにしへの東海道」碑がある。

(ようげん寺報 2013年6月15日発行 第8巻第2号掲載)
「いにしへの東海道」の碑
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