No.09

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

「かまこう」という名の池があった

 現在、蓮沼中学の体育館がある場所に、「かまこう」と呼ばれる池があった。同地は厳密にいえば、池上ではないが、蓮沼中学の体育館は池上5丁目の住民には選挙の投票所である。戦時中、防火用水として掘られたものだが、池の数ヵ所には自然湧水もあって、自然そのものだった。
 なぜ、ここが「かまこう」と呼ばれていたのか、といえば、現在の大森高校側に府立蒲田工業があったからである。「かまこう」にはクチボソ、フナ、ナマズ、ドジョウ、ライギョ、テナガエビ、メダカ…等々が棲み、子どもだけではなく、大人たちも釣りに来た。エビを捕まえて佃煮にしていた人もいたのである。かつて森高ラクビー部は高校ラグビー界の強豪校だったが、練習が終わったあと「かまこう」に飛び込んで教師に怒られていた。
 池の西側は原っぱで通称オートと呼ばれるオウサマバッタや、スズムシ、エンマコオロギ…等々のバッタ、昆虫類も沢山いて、池の上にはシオカラトンボ、ムギワラトンボ、デンキトンボ、ギンヤンマ、オニヤンマが飛び交っていた。時々、オウサマバッタを狙ってトンビが急降下してきた。
 実は、この原っぱは八潮高校のグラウンドで野球場も兼ねていた。時々、八潮のお姉さんたちが草刈りにやってきた。八潮高校の移転の噂もあったが、八潮は旧制府立第八高女の女子校であり、すでに現在地へ移転してきている大森高校は府立第二十三中学の男子校である。合併話もあったが、今更そんなこともできないということで、戦後の人口増の中で昭和31年3月、開校したのが現在の蓮沼中学だ。
 というわけで、池は昭和29年の初め頃まではあったと思う。夏には丸子多摩川の花火が真ん前に見えたし、蛍だっていたのである。富士山もここから遠くに見えた。昭和28年頃だったか、真っ昼間、知宇志面(ぢうしめん)(かつて徳持にあった小字(こあざ)の名称)のほうで大火事があった。現在の西蒲田6丁目、池上6丁目、東矢口1丁目をまたぐ地域である。消防自動車が沢山やってきて「かまこう」からホースを長くつないで、池上線の線路を跨いで消火に当たった。改正道路(池上通り)の南側の堤方・徳持・女塚・蓮沼の辺で火事があると、消防自動車が真先に駆け付けた。まさに、防火用水池だったのである。
 「かまこう」の埋め立てが始まったときは、ひじょうに悲しかった。さんざん、池の小魚や昆虫を捕まえて殺したが、子どもごころにも、これら諸精霊の霊たちよ安かれ、と思ったものである。自分が10歳にならない前の天国のような遊び場であった。今でも当時の光景は一〇〇%再現できる。

(ようげん寺報 2014年8月15日発行 第9巻 第3号掲載)
向こうに見える体育館のあたりに「かまこう」があった
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