No.12

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

曙楼と池上温泉場

 養源寺の東隣の妙雲寺さんの駐車場の入口のところに「曙楼門柱跡」という記された標識がある。この「曙楼」は「あけぼ乃楼」「明保乃楼」「あけぼの楼」とも記し、梅の名所として明治十九年(一八八六)、河野定成氏によって設立された。住居表示以前の番地だと堤方九七七番地、現在「めぐみ教会・めぐみ幼稚園」がある場所に該当する。
『京浜遊覧案内』には「大梅園曙楼」の名で掲載されていて、割烹店と旅館を兼ね、敷地は二千三百四十坪で、建物は十二棟もあった。庭園には老梅千三百余株と南天燭(いわゆるナンテン)三千余株が植わっていた。しかし、「関東随一」を誇った梅の名所も昭和四年(一九二九)には閉鎖されてしまう。
 ところが、昭和七年十月一日の東京市大森区の発足に伴う記念事業として、その直前に刊行された『池上町史』の明保乃楼の項目を見ても、閉鎖の記事は出てこない。昭和四年といえば、ウォール街の株価暴落に端を発する世界大恐慌の年であり、我国でも「大学は出たけれど」と呼ばれた時代である。それが落ち着いたら、再開しようとの模索があったと考えられる。
 実は、曙楼の赤煉瓦の門柱は、昭和の終り頃までは存在していた。もう少し遡ると、昭和三十三年頃までは曙楼の面影が「めぐみ坂」の右側(東側)にも広がっていた。現在の池上1丁目20番の右側には蓮が浮かんだ大きな池があり、めぐみ坂と並行するように緩い坂道が大森四中のめぐみ坂側の通用門の方向にのびていた。その入口付近には車寄せと想われるスペースがあり、昭和二十四~五年ごろまではときどき人力車が置かれていた。大森駅山王口にも人力車置場があったので、大森駅から池上の旧曙楼まで遊びに来る人もまだいたのではないかと想われる。
 めぐみ坂の名は戦前まで新井宿6丁目(現・中央7丁目)にあった「めぐみ教会」が昭和二十年の東京大空襲に遭って移転してきてからの通称だが、冬期は堤方神社側の斜面から溶け出した霜柱の水が午後三時を過ぎると再凍結し、大森四中の先輩たちがコンクリートを打って造った坂道が往来できないこともあった。そういうとき、旧曙楼の敷地内を通る坂道が秘かに利用されたが、宅地開発でその面影は完全に消失した。
 昔の絵図を見ると、曙楼には「池上温泉湯治場光明館」と記された建物もあった。時代の変遷に伴い、曙楼の遺構はほとんど消えてしまっているが、養源寺と妙雲寺との間の石段を上がりきった所の「めぐみ教会」との境の塀の崩れかけた赤煉瓦は曙楼の遺構である。

(ようげん寺報 2015年2月15日発行 第10巻 第1号掲載)
石段の上に見える曙楼の遺構
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