No.10

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

お会式の日、かつて池小は
朝礼だけで下校となった。

 10月12日の池上本門寺のお会式の日、かつて池上小学校では全校生徒が校庭に集まって朝礼が行われた。そして、校長先生から日蓮聖人や池上本門寺にまつわる話を聞くと、そのまま下校となった。少なくとも昭和26~31年まではそうだった。後年、そんな話を友人にすると、君が通っていた小学校って日蓮宗立なの、池上本門寺の付属なの、公立の小学校じゃあ、ありえないよ、と若干、馬鹿にされたこともある。
 実際のところ、お会式の日は授業どころじゃあなかった。何しろ学校の半分が警察や消防の警備本部として使われたからである。たしか前日から電電公社が臨時電話を校内に敷設していたし、朝礼が終わると、校庭には装甲車も含めて各種警備車両が並んだ。午前10時以降、お会式の日の池上小学校は施設が臨時に接収された形となり、事実上、”学校“の体を成さなくなっていたのである。
 朝礼の後、児童生徒は学校に立ち寄ることができない形になったが、それは子どもにとっては、逆に、楽しみの一日であった。下校する頃には参詣人の波が押し寄せ、それを潜り抜けながら露店や屋台を巡り歩いた。級友の中には店の子ではないのに手伝っている子もいた。
 万灯行列の見物人は、昨年(平成二十五年)はかのDJポリスが出てくるほどだから今のほうが多いが、全体的には昔のほうが賑わっていたようだ。
 露店・屋台もバリエーションに富んでいて、いろいろなものがあった。毎年、万年筆工場が火事になるらしく、水浸しの工場跡から拾い上げたという万年筆を、巧みな話術で売る自称「元・万年筆工場の失業社員」もいたし、ちょっと怪しげな見世物小屋や、旅回りの一座の小屋も掛けられたりした。旅の一座はお会式の直前ごろやってきて、現在の池上総合病院の裏手辺りに小屋掛けし、商店街では年末の大売出しの景品に入場券を出したりしたことあったようだ。
 大森四中ではお会式の日は、授業は午前中で終了した。午後になると、生徒会役員や一部の生徒が集められ、学校の周りに杭を打ち、ロープや鉄条網を張って、校内へ入って来れないようにした、それというのも、昭和三十年代の中頃まで、本門寺の境内と大森四中の校内の区別が付きにくい状態にあったからである。 
 大森高校のとき、クラスメートに池上の葛餅屋の友人がいた。もちろん、彼は家業を手伝うため、欠席届を出した。担任は古株だったが、今まで地元池上の商店街の子弟を受け持ったことがなく、「池上ではこれが常識」と言うと怒り心頭に発していた。

(ようげん寺報 2014年10月15日発行 第9巻 第5号掲載)
露店で売られるものも時代と共に変っていく
お問い合わせ