No.06

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

新参道の真ん中に置かれた移動交番

 昭和30年代の初めごろまで新参道は道路工事や水道工事のための資材置き場だった。砂利とか、側溝に使うコンクリート製のU字溝だとか、幼児なら楽に通り抜けることもできる大きなコンクリート製の土管や、かなり太めの長い鉄管などが置かれていた。ちょっと危険も伴うけれど、子ども達にとってはワイルドな遊び場の空間でもあった。
 昭和20年代中頃の4月になると、一力屋と池田屋や萬屋の中間の、現在の新参道の真ん中あたりに交番が出現した。お巡りさん一人が入れる程度のスペースの、三角屋根の小さな交番で、夏休みが始まる直前まで設置された。同様の交番は現在、内閣国務大臣に就任した人の家の前とか角に、警備のため在任中だけ置かれている。必要がなくなれば自動車で運び去ることができるものである。ただし、戦前の地図を見ると、ここに常設の交番があったようだ。
 昭和27年9月、徳持小学校が開校されると、その翌年には、もう、その移動式の小さなポリスボックスは置かれなくなってしまった。徳小ホームページを見ると「昭和27年9月13日 池上小学校より1~5年までの749名を分離し、14学級として編成」とある。それにともない、池小では1年生と6年生を除く2~5年生が午前と午後の二部授業制になっていたのが通常形態へ復した。そのとき、わたしは2年生だったが、入学時の一学年7組1クラス60名以上が4組1クラス50数名になった。この臨時交番のお巡りさんは子ども達の人気者だった。校庭外へ出てもよい図画の時間にはお巡りさんは格好のモデルとして選ばれた。多少の無理な決めポーズにも、若いお巡りさんは応じてくれたように記憶する。
 お巡りさんといえば、昭和30年代の初頭まで、池上駅前の三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行池上支店)のある五ッ角には、毎日夕方になると、お巡りさんがやってきて華麗にダンスを踊った。もちろん、交通整理をするためにである。堤電機と福好肉店との間の池上通り(当時は改正道路)の真ん中である。まだ、信号が設置されていなかったからである。
 現在の新参道の場所には戦前は数軒の住宅もあったらしいが、戦時中、空襲の類焼を防ぐため強制的に取り壊されたという。そして、その先は戦前の都市計画では現在の池上通りを横切る形で蒲田方面へ抜ける道路が予定されていた。それが終戦で挫折し、のち都営堤方アパートが建設された場所には戦後間もなく、焼跡闇市を彷彿とさせるマーケットが出現し、新参道が資材置き場だったころは結構賑わっていた。

(ようげん寺報 2014年2月15日発行 第9巻 第1号掲載)
笛の音と共に華麗な手さばきで交通整理が行われた交差点
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