No.11

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

養源寺の墓地の上のほうにある
堤方権現台遺跡

 池上1-9-10の不変山永寿院境内の万両塚の南隣に、約千五百年前の円墳と推定される堤方権現台古墳と、約二千年前の弥生住居跡を復元した二つの遺跡が並んでいる。この地を「堤方権現台」と呼ぶのは、「武蔵国荏原郡六郷領堤方村」に属していたからである。ところが、永寿院のある場所は同じ「武蔵国荏原郡」でも「馬込領下池上村」である。この遺跡のある場所が六郷領と馬込領、堤方村と下池上村との境になっていたからである。
 一方、権現台という地名は、ここに熊野権現を祀った熊野社があったことに由来する。『新編武蔵風土記稿』は、この熊野社について、次のように記している(なお、引用に際しては、現代語に換えた)。
「熊野社 除地六畝二十歩。村の北方にある本門寺の境内に続いている。この地の鎮守である。社は四面が九尺の南向きで、鳥居がある。柱の間は一間。毎年正月二十八日に祭礼を行なう。村民の持。この社の後ろに小高い塚のようなものがあって権現台という。いずれの頃か塚の上の古松が大風のとき吹き折られて、その根元を掘ったところ古刀古器を得た。村の古老の伝えによれば、祟りがあることを怖れて後日、元の所へ埋めたという。」
 この熊野社は明治、明治の分離、神社合祀のとき、名目上は堤方神社に合祀されたが、実際は廃社となっている。その跡地に昭和七年、住宅が建てられた。ちなみに、その住宅はその時からなのか、戦後になってからかわからないが、作家・森村桂(一九四〇~二〇〇四年)の家となり、長い間、廃屋同然になっていたのを取り壊したとき、『記稿』の記述どおりの遺物が発見された。
 権現というと、東照神君とか大権現様とか呼ばれた徳川家康を思い出すが、正しくは仏・菩薩が人々を救うため權(仮)に示現することをいう。権現台という地名は全国に点在し、熊野権現を祀ったところが多い。しかし、本当は、神仏の霊威がある場所なら、どんな神や仏でもよかったし、そういう場所はムラ(村・邑)やサト(里・郷)や、郡県・国のサカヒ(境・堺・界…)となった。それが逆に捉えられて、境界には神仏が祀られていると考えられるようになった。
 養源寺の上の墓地から南の方角を見ると、北西―南東軸に呑川が流れている。池上5丁目の呑川の一本橋から眺めると、めぐみ教会と養源寺墓地との裏側に「堤方権現台」があり、何とその右側に五重塔が見えるという不思議な光景が現われる。養源寺墓地の裏側の高台が縄文・弥生・古墳の時代から人びとが神々の坐(ま)す地として崇(あが)められてサカヒになったと考えられる。

(ようげん寺報 2014年12月15日発行 第9巻 第6号掲載)
墓地からの眺め。昔は遠く羽田の海が見えた。
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