No.27

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

原っぱや石ころ道の宝物

 昭和30年前後の小学生の頃、始業時間の前や休み時間のとき、学級では宝物の交換会が開かれた。小粒の水晶、変圧器の絶縁紙、何か得体の知れない物、削ると折れ芯の鉛筆…等々。大きな声では言えないが、石綿、すなわち、アスベストなどもあった。指でこすると、ざらざら、ざわざわとした糸のような粒子が飛んだ。横浜生まれの同年代の人も、同じような体験があると言う。
 小粒の水晶は「君んちの近くでも拾えるよ」と言われ、放課後すぐ探しに出掛けた。しかし、1個も落ちてはいなかった。「雨上がりじゃあないと駄目だよ」と極意を伝授され、次の機会を待った。すると、あるわあるわ、砂利の間に、キラキラ光るものが散らばっていた。雨で道路の表層の土が流されて、小粒の水晶が露出してきたわけだ。小石をひっくり返して、なおも探していると3センチほどの、多分、品質の悪い紫水晶も拾うことができた。ポケットに数年間、入っていたが、中学1年のとき、気が付くと紛失していた。
 池上では、改正道路(現・池上通り)を除くと、昭和35年以前は砂利道のほうが多かった。比較的、車が多い道路では砂利はすぐ土中に潜ってしまう。そこで再び砂利が撒かれる。その繰り返しだったが、泥んこ道を解消するため、いろいろな所で産出された砂利が敷かれた。小粒の水晶はおそらく山梨県内から持ち込まれたものだろう。場所によっては、マンガン鉱が混じったものとか、いろいろあった。
 原っぱには、もっと、いろいろな宝物があった。原っぱの形成を探ると、田んぼや畑の耕作が中止されて宅地化されるまでの期間が原っぱである。その間、田んぼの埋め立てに石炭殻やズリなども持ち込まれた。道路の小粒の水晶もズリの一種と思われる。いずれにせよ、すぐ草ぼうぼうの草むらになる。そこに子供たちが入り込み、草野球など始めると立派な「原っぱ」になる。その過程で、廃棄物が投棄され、子どもたちがお宝として拾ってきたわけだ。「綺麗なお姉さんのバラバラ死体があるよ、一緒に見に行かない?」と誘われて、背丈ほどの夏草を掻き分けて探しに行くと、案の定、マネキン人形が転がっていた。そして、その隣には、猫の死体も…。慌てて逃げかえった。
 折れ芯ばかりの鉛筆というのは、クラスメートが大井の三菱鉛筆のゴミ箱から拾ってきた廃棄物で、本人は当初、売ろうと思ったらしいが、ボンナイフで削ると、削っても削っても折れ芯ということで、他の宝物と比べると価値が低かった。でも、運がいいと折れ芯なしということもあった。原っぱや石ころ道には宝物が転がっていた。

(ようげん寺報 2017年8月15日発行 第12巻 第4号掲載)
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池上5丁目公園。このあたりでも宝物を探した
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