No.15

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

川崎市の、もう一つの池上

 川崎市川崎区に池上新町一~三丁目と池上町という「池上」を冠する二つの町がある。鎌倉時代、日蓮聖人を池上に招いた池上宗仲の子孫が江戸期になって開拓したことに因む地名である。池上氏は武蔵国荏原郡池上郷の地頭であると共に、鎌倉幕府の作事奉行(建築関係の長官)の要職にあった。
 その後、小田原の北条家(後北条氏)に仕えたが、徳川家康が江戸に入府すると、池上氏は士分を返上して百姓身分となった。右近幸種のとき多摩川下流域の新田開発を発企し、その次の太郎右衛門幸広の寛永19年、池上氏は一家をあげて川崎の大師河原に移り住んだ。その子の幸定との二代で大師河原周辺の稲荷新田が開拓された。
 幸広の孫の太郎左衛門幸豊(1718~1798)は、いわゆる池上新田を開発する一方、製塩、甘藷を使った製糖、葡萄と梨の栽培などでも貢献をした。池上宗仲から数えて二十四代目の、幸豊を祭神の一柱として祀ったのが池上新町二丁目の汐留稲荷神社である。四谷上町の義田稲荷神社は、幸豊の提唱によって困窮者の救済のため田地を置いたことに由来。塩浜二丁目の神明神社境内の塩釜神社は、幸豊が塩作りをしたときの守護神で、大田南畝(1749~1823)の『玉川砂利』には「稲荷新田の塩濱にて、塩竈をみる。かまは蜊貝の粉と土をまぜてねりたるもの也と云」とある。
 ちなみに、大田南畝は蜀山人の号で知られる狂歌師・文人で、幕府の御家人でもあった。文化五年(1808)の多摩川流域の洪水被害の点検吟味のため、その年の十二月から翌年四月にかけて多摩川両岸を歩いている。『調布日記』『玉川砂利』『玉川披砂』『向岡閑話』はこのとき物したもの。南畝は多摩川流域に鳴り響く池上本門寺の鐘楼の音を聴き、それが時の鐘であったと述べている。『調布日記』には本門寺を参拝したとき「此あたりに宗仲八郎左衛門といふ農夫あり。これ古の池上右衛門太夫宗仲の孫なるべし」と書いている。
 一方、大師河原の池上家を訪ね、 大蛇丸底深(幸広)と江戸大塚の土黄坊樽次との蜂竜盃を酌み交わしての酒戦を記録している。その話はのち『江戸名所図会』巻之二に収録されたが、その記念碑が京急川崎大師駅西側の若宮八幡宮境内にある。また、日ノ出二丁目の厳島神社境内の出来野稲荷神社には百三十本を超える赤い幟がはためいているが、その半数が池上姓だ。ちなみに、出来野は長十郎梨の発祥地であることを考えると、川崎市高津区、多摩区、東京都稲城市の多摩川流域の梨畑の原郷も池上氏が係わったことが想像できる。恐るべきイケガミッシー、長十郎ナッシー。

(ようげん寺報 2015年8月15日発行 第10巻 第4号掲載)
幸豊を祀る汐留稲荷神社
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