No.03

菅田正明-民族宗教史家

ようげん寺報バックナンバー

どこまでが “池上か”

 池上は一~八丁目まである。これは昭和四十年(一九六五)~四十三年(一九六八)の時間差(ごく一部では昭和四十五年)をもって住居表示制度が導入されて以降のことである。それ以前の町名だと、池上本町・堤方町・池上徳持町と呼ばれた地域である。昭和七年(一九三二)十月、東京市大森区の成立にともなって、荏原郡池上町が東京市に編入されたあとの地名である。
 それ以前に遡ると、明治二十二年の町村制施行時の名称だと、池上村大字下池上・池上村大字堤方・池上村大字徳持である。その前になると、それぞれ池上村(馬込領。上池上も含む)・堤方村(六郷領)・徳持村(六郷領)だった。ちなみに、池上村は前記三村のほか石川村(世田ヶ谷領)・雪ヶ谷村(馬込領)・市ノ倉村(六郷領)・桐ケ谷村(馬込領)・久ヶ原村(馬込領、久が原領)・道々橋村(馬込領)で構成され、大正十五年(一九二六)八月一日、町制を施行している。
 養源寺の所在地は池上1-31-1だが、昭和四十年までは堤方町九七〇番地である。つまり、養源寺は堤方村(荏原郡六郷領)である。これに対して同じく池上一丁目の本門寺は池上1-1-1で、旧「下池上村」に属する。さらに、池上一丁目には市野倉町(市ノ倉村)・桐里町(桐ケ谷村)の一部も含まれている。
 このほか、池上三丁目には久ヶ原町=久ヶ原村(六郷領)、池上八丁目には調布千鳥町=東調布峯町(峯村=六郷領)の一部が含まれている。すなわち、池上本町、池上徳持町はほぼ全域が池上だが、ややこしいのは養源寺も属する「堤方村」だ。というのは、中央七・八丁目も昭和四十五年まで堤方町であったし、実は、大森区と蒲田区の発足以前には東海道線(京浜東北線)を飛び越えて東邦医大の少し手前まで池上町大字堤方が広がっていたからである。
 現在も中央八丁目は堤方文化町会だが、線路を挟んで「玉子屋」や「メリーチョコレート」のある地域は「堤方村」の小名(字)「十二天」と呼ばれていた。明治期の神社合祀政策で若宮八幡社(現・堤方神社)へ統合されるまで「十二天社」が鎮座していたからである。ちなみに、養源寺の場所の字名は「山下」である。
 ところが、池上5-26~28は「堤方」ではなく「女塚」である。呑川のほとりの同地には「都営住宅池上五丁目アパート」があるが、その住民組織は「女塚団地自治会」だ。実は、この地は昭和七年までは荏原郡蒲田町沖島、江戸時代から明治二十二年までは「武蔵國荏原郡六郷領鵜ノ木村」の飛地の小名「奥嶋」だった。

(ようげん寺報 2013年8月15日発行 第8巻第3号掲載)
養源寺の山上から
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